昭和39年 | 新潟県栃尾市(現長岡市)に生まれる |
2歳時に事故で視神経切断の大怪我により左眼を失明しました。しかし当時担当の名医のおかげでかろうじて右眼の光は助かりました。 「右眼も50年程度が限界だが、それまでに医学の進歩に期待しましょう」との当時の担当医師の言葉だったようですが、それから50年以上たちました。光はまだ失っていません。〝感謝〟の言葉しかありません。社会全体にこのご恩を返すよう心がけてまいります。 | |
昭和52年 | 新潟県栃尾市立樫出小学校 卒業 |
5年生の時に他校から転校。無謀にも転校直後に生徒会長選挙に立候補したもののあえなく敗退。人生初の選挙挑戦でした。 | |
昭和55年 | 新潟県栃尾市立下塩谷中学校 卒業 |
卓球部副主将、市内大会個人戦3位くらいで戦績はそれほどではありませんでした。 3年時に生徒会役員選挙に出馬。規律担当役員に当選し、これが人生初当選。 男子は丸坊主、女子はおかっぱと、昭和の丸出しの大胆な政策を実行。保護者受けは最高ながら、生徒には相当の不満があったはず。 応援団を兼務してバリカンを所持してた。硬派。 | |
昭和58年 | 新潟県立栃尾高等学校 卒業 |
当時流行(長渕剛、松山千春etc)したギター弾き語りで作詞・作曲もしてシンガーソングライターとして校内デビューし、定期的にコンサートを開催しました。やや軟派。 大学進学率10%以下の高校でしたが、山に囲まれた盆地の広い市内に唯一の高校のため選択肢がありませんでした。 私自身の高校卒業時の偏差値は40以下で、当時の担任からも大学進学は難しいとレッテル張られてました。 一念発起してその後の2浪生活で成績急上昇で最終的には偏差値70を越えるようになり、当時の受験雑誌に奇跡の上昇気流特集の事例として紹介されました。 受験のコツは予備校の授業は一番前の席で受講する事、自分で問題集をつくる事。出題者の立場になってみると出題の意図を読み解く事ができます。予備校時代は高田馬場の3畳1間。そこに友人達が集まり築地のマグロのように重なるように寝泊まりしていたので〝マグロ部屋〟と呼ばれてました。『座って半畳、寝て一畳』を体感しました。 | |
昭和60年 | 慶應義塾大学文学部 入学 |
<挿話>テニスサークルにビリヤード、また当時はDISCOブームで私も六本木の小規模DISCOをフランチャイズにしてパーティを主催してました。完全に軟派路線でした。 新聞社の編集アシスト、ビラ配り、銀座のクラブのボーイ、新橋のスナックのマスター、新宿のDISCOの店員、家庭教師などあらゆるジャンルのバイトをしましたが、振り返ると社会に出てから以外と役に立ってます。 | |
平成元年 | 慶應義塾大学文学部人間関係学科人間科学専攻 卒業 |
<挿話> | |
同 | (株)日本エルシーエー入社(経営コンサルタント) |
以降 | (株)リクルート契約社員、(株)ニュービジネス総合研究所研究員、(株)桜ゴルフ社長室 |
平成4年 | 都議会議員秘書 |
平成7年 | 杉並区議会議員選挙 初当選(当時最年少30歳) |
平成11年 | 杉並区議会議員選挙 2期目当選 |
平成15年 | 杉並区議会議員選挙 3期目当選 |
同 | 杉並区監査委員(区議会議員と兼務) |
平成19年 | 杉並区議会議員選挙 惜敗 |
同 | 株式会社ストレート・アイ 設立 代表取締役就任(現在に至る) |
平成20年 | 一般社団法人日本よい国構想研究会 設立 理事就任(H30年法人解散) |
平成22年 | 日本創新党 設立 党首特別秘書就任(H24年9月日本維新の会と合併) |
平成23年 | 杉並区議会議員選挙 4期目復活当選 |
平成24年 | 日本維新の会に合流 東京都総支部副幹事長 |
平成26年 | 杉並区長選挙出馬 次点にて惜敗 |
同 | 次世代の党設立 東京都連事務局長就任 次世代の党東京政治塾実行委員長就任 |
平成27年 | 杉並区議会議員選挙 5期目当選 |
令和元年 | 杉並区議会議員選挙 惜敗 |
同 | 一般社団法人地域再生戦略機構 設立 代表理事就任 |