佐々木浩プロフィール

生 年 月 日
昭和39年12月31日大晦日 (辰年の山羊座) 49歳
新潟県栃尾市(現、長岡市)に生まれる
身長/体重
163cm/64kg 前後 (ダイエットで9~10kg 削減しました)
血 液 型
A型
趣   味
DSCF0014カラオケ・卓球・ビリヤード・バイクツーリング・カヌー・キャンプ・温泉

学生時代

昭和52年
■樫出小学校 卒業
5年生のときに市内の別の小学校から転校した。すぐに生徒会長に立候補し皆あきれる・・・あえなく落選。 たぶんこの頃から選挙が好きだったのかもしれない。また同じく5年生の時に長編小説「ジャンボどくろ島の冒険」を書き上げ、当時、放送委員だった特権から昼休みに何度かに渡って朗読テープを流した。たぶん本人以外は皆は迷惑だったと思う。ものを書いたりしゃべったりするのは得意だったようだ。
昭和55年
■下塩谷中学校 卒業
卓球部に所属して副主将、市内の大会の個人戦で銅メダルを得るがそれ以外はこれといって戦果はあまりなかった。 やっぱり生徒会選挙に立候補して規律担当役員に当選。 男子全員丸坊主、女子はおかっぱ以下の髪型にという大胆な政策を打ち出し実現。応援団にも所属しやや硬派。
昭和58年
■栃尾高校 卒業
当時はやったギターの弾き語りにはまり、オリジナル曲をひっさげて何度かコンサートを開く。ファンクラブは・・なかった。(残念!)当時のテープをもっている人がいたら早く処分して下さい。 硬派から軟派へ。
■新潟予備校&早稲田予備校
高卒時の偏差値40前後だったが2年間の予備校生活で70近くまで急上昇。 受験勉強もやらず嫌いだっただけで、当時は模試の度に偏差値があがるので結構楽しかった。 あこがれの早慶が射程距離に入るなんてまさに夢のようだった。 また奇跡の上昇気流として受験雑誌の記事になった。 2浪目の早稲田予備校時代の1年間は高田馬場の三畳一間ですごし、「人間座って半畳、寝て一畳」を体感した。そんな狭い部屋に予備校仲間が遊びに来て、時には築地のマグロみたいに重なるように寝泊まりしてたので、その様子から「マグロ部屋」とよばれた。ちなみに髪を3色に染めていた頃もあったが、東京デビューではしゃいでいたとご容赦ください。
平成元年
■慶応義塾大学文学部人間関係学科人間科学専攻 卒業
新聞社の編集アシスト、ビラ配り、銀座のクラブのボーイ、新橋のスナックのマスター、新宿のDISCOの店員など様々なバイトをやったがとても社会勉強になった。 DISCOやテニスにビリヤードと完全に軟派路線、ナンパの小道具にと田園調布駅からの定期券をゲットするために世田谷に引っ越しをするが、駅から徒歩20分ちかくかかる場所で、その浅はかさに気づきまた引っ越しをした。 成績はあまり良いとはいえなかったが、要領のよさでカバーし留年することなく卒業できた。 また大学生活後半はベンチャービジネス研究に興味を持ちビジネス誌の編集に参加した。

社会人時代

■(株)日本エルシーエー(大手経営コンサルタント会社)FC推進部
まだ就職バブルの時代で内定も取りやすい状況だった。電話1本で即内定という今ではとても考えられない状況でした。 しかし有名企業に就職するのではなく、当時はいずれベンチャー企業を立ち上げて一儲けをもくろんでいたので、あえて経営コンサルタントをめざしました。
■(株)リクルート 契約社員 Bing担当
リクルートの急成長の秘密を探るべく潜入。 他の会社にはないものを確かに感じた。
■(株)ニュービジネス総合研究所 研究員
新規ビジネス開発専門会社 ベンチャースピリッツが疼いた。
■(株)桜ゴルフ 社長秘書等
有名なカリスマ社長の下で勉強させていただいた。この頃までは佐々木はいずれ経営の道で頭角を表すだろうと皆が思ったに違いない。(たぶん)

そして政治の道へ

■東京都議会議員 秘書
政治の世界に転身を図り、大学の先輩である青木英二都議(当時)の門をたたく。 青木英二さんは現在の目黒区長
■公募と公認
政治活動の拠点を杉並に移し、日本新党の候補者公募に応募して合格。 杉並支部長は山田宏衆議院議員( 当時、現在は衆議院議員 )幹事長は田中良都議(当時、現在は杉並区長)日本新党が新進党に合体したためそのまま新進党の公認候補となる。

※詳しくは 議会、活動記録、戦記のページも参照してください。

平成7年4月
初当選
平成9年1月
東京リニューアル発足
初代代表となる。東京リニューアルは20代30代の東京都内の若手地方議員の政策集団です。
平成9年7月
新進党離脱
無所属に
平成9年9月
郵政事業民営化 たった一人で賛成
区議会で自民党から共産党まで”郵政事業民営化反対”の意見書提出に唯一反対。信念を曲げない頑固さ。しかしその後の小泉政権時に民営化が実現し、議会も世論もこの当時とは全く逆になった。
平成10年5月
未来塾 理事
地方議員養成学校を設立しました。
平成10年10月
区議会議員の立候補者を公募
当時、公募自体が大変めずらしい試みで、しかも自分と同じ選挙区で候補を求めることは有り得なかった。実際に候補者を擁立しました。
平成11年4月
2期目の当選、山田宏区長誕生
平成15年4月
3期目の当選
平成19年4月
4期目の挑戦も惜敗

「佐々木は大丈夫」が蔓延。箱を開けたら本人、支援者皆真っ青。前評判が良すぎて選挙はこれが恐い。

何と言っても本人の慢心が最たる原因でした。

平成19年5月
株式会社ストレート・アイ設立
経営コンサルティング、政策立案、調査業務、企画運営等

落選すると収入がガタ減りなのに税金は前年度収入で計算されるのでとてもつらい。

平成19年12月
沖縄でツーリング中に突然の豪雨にて自爆。そのまま入院。
鎖骨、肩胛骨、肋骨など計7カ所の骨折。クリスマスもお正月も病院で過ごしました。平成19年の締めくくりも散々な目にあいましたが必ずやと色んな意味で復活を誓いました。

(沖縄の道路は雨が降るととても滑るので注意しましょう)

平成20年4月
リハビリも順調でほぼ元通りに回復。
平成20年5月
一般社団法人日本よい国構想研究会 設立 理事に就任
一般社団法人日本よい国構想研究会は山田宏前杉並区長の国家観、政治哲学をベースに新たな国家百年の計をつくるべく発足しました。
平成20年8月
大怪我したけどまだまだ懲りずにバイクは降りず。北海道へバイクでキャンプツーリング敢行。19年のマイナスをひとつリベンジ、あとは区政復帰だ。
平成20年12月
沖縄ツーリングで鬼門を突破。
平成21年2月
書籍「日本よい国構想」発行
当初は書店売りしない自主出版形式にもかかわらずベストセラーに。しかし価格を抑えたために利益はほとんどありませんでした。その後、書店売りの出版もでましたが当時の白本(表紙が白)はレアものに。
平成21年9月
日本志民会議設立参加
平成22年4月
日本創新党設立参加
情報戦略室長 兼党首特別秘書に
平成22年5月
山田宏さんが杉並区長を辞任
山田宏さんは参議院選出馬。
平成22年7月
区議会補欠選挙(欠員2)出馬
ここで当選しても任期はわずか8ヶ月あまり。すぐに本選が23年4月に行われるのでためらいどころではある。しかし次の区議選に出馬すると公言した以上は挑戦を決意する。

結果は惜敗 (26,665票)七転八起。捲土重来を期す。

平成23年4月
区議会 見事に復活当選
4期目スタート
平成24年9月
日本創新党解党
日本維新の会に合流、尚、創新党は前回の参議院選で政党要件を満たさなかったので事実上は無所属扱いとなります
平成25年11月
日本維新の会に所属
日本維新の会東京都総支部副幹事長に就任
平成26年4月
維新政治塾in東京・千葉設立
運営副委員長に就任
平成26年6月
日本維新の会離党
新しい杉並区の経営者になるべく決意。無所属になりました。杉並区長選に出馬

「義を見てせざるは勇なきなり」の思いでした。

両親はじめ皆反対しましたが「大馬鹿者と呼ばれても臆病者とは言われたくない」と準備期間2週間足らずでしたが強行出馬致しました。

杉並区長選、善戦するも敗退

低投票率(28.79%)の中、現職の組織票の壁は厚く敗北となりました。しかし投票者の4分の1以上(33,064票得票率26.42%)の支持を頂いた事を重く受け止め、新たな決意で活動を再開致しました。